東京大学 農地環境工学研究室             >>東京大学 >>東京大学大学院農学生命科学研究科 >>生物環境工学専攻

八重子夫人の青山霊園への合祀が実現しました。

 上野英三郎先生の夫人、八重子さん(1961年4月30日没)の青山霊園の上野博士の墓への合祀が実現することになり、5月19日に納骨(分骨)を行いました。
 青山霊園の上野博士の墓は、東大の上野先生の教え子たちが作って農業農村工学会(旧農業土木学会)が管理し毎年、墓参会を行ってきたものですが、東京都霊園条例にしたがって名義(使用人)は三重の上野家の相続人(故人)になっており、納骨には新たに名義の書き換えが必要でした。これまでは記載住所が「農業土木学会」になっており、学会が窓口で事実上の使用者であることを霊園(東京都)が認めていたと言えます。しかし、今回の名義書換ではこのような「学会住所」は認められなかったため、学会としては学会自身が使用者になることを求めて東京都との交渉を行ってきました。2年に及ぶ交渉の結果、墓所の使用人に農業農村工学会がなることは都の条例上、認められなかったものの、新たな名義人(上野博士の戸籍上のお孫さん)と学会との間で墓所の管理委託契約を都の認知の下で行うことで、これまでどおりに、学会が霊園(都)に対する窓口となることになりました。
 この合意の下で、名義変更を行った上、新たな名義人のご承諾をいただいて八重子さんの合祀が実現したものです。
(2016年5月19日 農地環境工学研究室 塩沢 昌)


以下当日の写真


納骨


合祀


八重子さんの遺族と墓参会参加者による記念撮影

八重子さん,上野博士,ハチ公の写真
(高橋様:八重子さんご遺族 所蔵)

青山霊園の上野博士の墓所についての参考資料

 八重子夫人の合祀の意義,その経緯に関しては下記をご覧ください.

 塩沢  昌:「第5話 上野英三郎博士と愛犬ハチ」
(一ノ瀬正樹・正木春彦編「東大ハチ公物語」東大出版会  2015年)より抜粋


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 上野博士には、実の子がなかった。さらに、八重子夫人は入籍をしていなかった。上野博士の実家が三重の名家で親が決めた縁談があったが博士はこれに従わず八重子さんを伴侶に選んだが、両親に認めてもらうまでは入籍をしないでいたようである。戸籍上は他人で事実婚である八重子夫人は、旧民法下で一切の財産を相続することができず、ハチをはじめ飼い犬ともども長年暮らした家を出なければならなかった。八重子夫人は、自分たちが使っていた家具が道玄坂の古道具屋に出ているのを見つけて一部を買い集めたとのことである。犬たちはそれぞれ八重子夫人の親類などに預けられた。ハチは八重子さんの知り合いの呉服屋に預けられ、生まれて初めて縄で繋がれる暮らしとなったが、綱を外されると、後ろ姿が似た客を八重子さんと間違えて飛びかかり、居られなくなって他の親類宅に移されたが、そこでも大型犬のハチが原因で近所のとのトラブルが生じた。

 入籍をしていながったために住んでいた家はもとより何一つ相続できずに家を出なければならなかった八重子未亡人を支えたのは、東大の上野博士の弟子達であった。生前、重い中耳炎を患って入院した上野博士に、教え子達はお金を出し合って、静養のための別荘を葉山に造って贈呈しようとした。上野博士は最初、「そのようなものをもらうわけにいかぬ」と辞退したが、再々の教え子の頼みに、その誠意を無駄にしないようにと「自分が生きている間、借りて使わせてもらう」ということで決着していた。教え子達は、博士の死後、この別荘を売却したお金で八重子さんのために世田谷に家を建てた。それから、募金を集めて、裏千家の茶道の教授として生計を立てていた八重子未亡人のために茶室を造って寄贈している。さらにその後、生涯の年金の提供を申し出たが、八重子未亡人は涙を流して謝絶したとされる。

 弟子達が八重子未亡人のために行ったことはそれにだけではない。上野博士の遺骨は、三重県久居の上野家累代の墓に埋葬されたが、弟子達は、青山霊園に区画を購入し、ここに分骨埋葬をして八重子未亡人と門下生は命日に墓参するようになった。この青山霊園の墓は、その後、昭和26年に農業土木学会(農業農村工学会に改称)が永代管理することを学会理事会が決定し、これに合意する文書を上野博士の相続人(博士の甥)と交わして、学会が毎年の墓参会を行い、墓を守っている。「ハチ公の記念碑」(事実上のハチの墓)も、この青山霊園の上野博士の墓石の傍らにある。三重の上野家の墓に埋葬されていたにもかかわらず、教え子達が別に墓を作って分骨するということは普通は考えられないことであり、青山霊園の墓は、博士の教え子達が八重子未亡人のために作ったとしか考えられない。実際、八重子未亡人が存命中は、青山霊園で教え子達や学会が行った墓参会等の祭事は、八重子未亡人を事実上の喪主として行われていた。ハチが死んだときも、盛大な追悼の式典が渋谷で行われ八重子未亡人が飼い主とて参加し、ハチの霊を埋葬する祭事がこの青山霊園で行われた。

 世田谷に家ができてから、当初、八重子未亡人はこの家でハチを飼おうとした。しかし、かつてのような広い敷地ではなく問題が生じた。大型犬のハチ公が走り回れる広い庭や家の畑があるわけではなく、綱が解かれると、ハチは家の裏の畑に入り込んで百姓に棒で追い回され、百姓に畑を荒らしたと怒鳴り込まれた。さらに、縄で繋いでおくと、昔から一緒に飼われていたエスが逆境の中で性格が悪くなりハチを噛んでいじめるようになっていた。またこのころ、ハチが渋谷で見かけたという知らせが八重子さんに伝わっていた。そこで、八重子さんはハチ公を世田谷の家で飼うことを断念し、かつて上野家に出入りしていてハチを知っていて上野博士に恩がある植木職人の小林菊三郎さんに頼んで飼ってもらうことにした。小林さんの家は富ヶ谷にあって、ハチが好きな渋谷に近いためでもあった。小林さん宅では、ハチは綱で繋がれることもなく、朝夕、自由に渋谷に通うことができた。小林さんには子供が多く、子供にはコロッケを食べさせてもハチには牛肉を与えたとされ、恩人の上野博士がかわいがっていた犬であるハチを大切にした。ハチは渋谷に通い渋谷で過ごすことが多かったが、決して野良犬になったことはなく、上野博士を知る人々によって守られていた。八重子未亡人は、ハチを手放さざるを得なかったが、ハチが死ぬまで見守り続けた。

 青山霊園の上野英三郎の墓とその傍らにハチ公の霊が眠る墓(記念碑)には、今なお、多くの人々が訪れる。すでに述べたように、この墓は博士の門下生が八重子夫人のために作ったものと考えられ、その後は農業土木学会が長年管理してきた墓で、今日では農業土木学の始祖である上野博士を顕彰する墓となっている。しかし、肝心の八重子夫人(昭和36年4月30日没)がこの墓に埋葬されていない。ハチ公に関する資料をまとめた林正春氏は、青山霊園の墓について次のように書いている:「上野博士の死後、ハチ公の面倒を死ぬまでみた上野未亡人は上野博士夫妻として、ここに一緒に眠ってはいない。ここに眠るのは上野博士とハチ公だけである。・・・夫婦でありながら夫と引き裂かれたまま永眠するのが、上野博士夫人八重さんである。上野未亡人は晩年、青山墓地上野博士の墓石のかたわらの灯籠の下に埋めてといっていた。そのささやかな願いは絶たれたままである。今はなき上野博士夫人、八重さんの悲劇は終わっていない。」(ハチ公文献集)。
「東大にハチ公と上野英三郎博士の像を作る会」の活動を契機に、この経緯を知った東大の農業農村工学会学会員の教授有志は、2014年4月に、八重子夫人(戸籍上は「坂野八重」)の遺族と三重の上野家の相続人の合意が得られたことを前提に、八重子夫人の骨を坂野家の菩提寺から分骨して、青山霊園の上野博士の墓に合祀するよう農業農村工学会学会に対して申し入れた。八重子夫人を合祀することが、入籍をしていなかったとはいえ八重子夫人が上野博士と互いに信頼し合う夫妻であったこと、および、八重子夫人が博士亡き後、ハチ公を守った飼い主であったという歴史の事実を後世に伝えるために必要と考えてのことである。学会は青山霊園(東京都)に対して、八重子さんの納骨の申し入れを行った。しかし、ここに東京都との間に問題が生じて手続きが進まず、未だに合祀ができずにいる(2015年1月時点)。

 青山霊園は東京都営の墓で、東京都霊園条例によって、墓の使用者(名義人)は、「祖先の祭祀(し)を主宰すべき者」となっており、名義人が埋葬の申請をすることができる。上野博士の墓の名義は、三重の上野家の相続人(上野博士の甥が養子)になっているが住所が農業土木学会となっていた。形式的に法的な相続人(法律上の子)の名義としつつ、実態は学会が使用者であることを示すための苦肉の策であったのであろう。この名義人は既に故人のため、まず、その相続人に名義を書き換えなければならない。ところが、東京都の担当部局は、これまでの学会住所ではなく、三重の相続人の正規の住所とすることを求めてきた。学会としては、墓の歴史と60年間、学会が毎年の祭事と管理を行ってきた実態に反するものでこれに応じることは断じてできず、この際、経緯と実態に合わせて、学会が墓の名義人となることを求めているが、東京都は認めていない(名義人である三重の上野家の相続人とは、学会が墓を永年管理するという文書を昭和26年に交わしている)。ことが現代であれば、上野博士と長年一緒に暮らした「内縁の妻」である八重子さんが最初からこの墓の名義人となっていたはずで、何の問題もなかったことであろう。100年前の旧民法下で、入籍していなかった八重子未亡人が名義人になれなかったために生じたことで、今、墓の名義人としてふさわしいのは、学会をおいて他にはないのであるが、東京都がこれを理解しないのは残念である。この墓において上野博士の祭祀を行ってきたのは、かつては八重子夫人と門下生たちで、その後は学会なのである。上野英三郎博士と八重子夫人とハチ公が一緒に眠ることができてはじめて、八重子夫人の悲劇に終止符がうたれ、真実の歴史が後世に伝えられるのである。関係の遺族(八重子夫人の遺族、三重の上野家の相続人)が合意しているにもかかわらず、東京都の極めて形式的な対応によって八重子夫人の合祀を進められないのは、もどかしく残念な限りである。


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