Dearproftabuchi

田渕俊雄先生へのメッセージ

  お寄せ頂いたメッセージを順不同で掲載しております。



吉野邦彦 
 昨年11月,黒田清一郎君から田渕先生の訃報を受けたときには,本当に驚きました.昨年のお正月には,久方ぶりに先生と奥様に新年のご挨拶をしに伺い3時間くらい楽しくお話をしました.その時はお元気そうでしたので,先生が亡くなられたと聞いたときはまさかという思いでした.
 先生が東大農地研に故小出先生の後任の先生として着任されてから,5年間(正確には4年と10カ月くらい),研究室の助手として務めさせていただきました.その間,先生からは先生の学問と研究に対する真摯な姿勢と研究哲学について多くを学び,私も先生のようになりたいと思うようになりました.特に先生からは,その後の私の自然現象を見る視点の原点となる”地形連鎖”という概念を教えて頂きました.農業地域もGeochemistryの分野の対象空間であるという研究上の視点を示して頂き,私の研究テーマの範囲が拡大し,また,私の専門とするリモートセンシングによる空間解析との接点ともなりました.先生が在籍当時に研究室学生,教員一同を引き連れて北海道道東地域の水質調査に行ったことがきっかけとなり,私はそれ以来ずっと北海道道東の釧路湿原地域の環境保全研究にどっぷりと浸かってしまいました.
 本当に田渕先生には感謝しております.私が科学者のはしくれとして研究活動が出来るのも田渕先生のお陰です.先生無くして,今の私はありません.先生にはいくら感謝しても感謝しきれません.田渕先生,本当に有難うございました.
 謹んで先生のご冥福をお祈り申し上げます.

山路永司 
 田渕先生の研究者としての最大の特徴であり特長は、その時代の大きな課題に、実証主義で取り組むこと、すなわち、現場をよく観察し、現場に学び、解決策を考え、現場に適用することだと考えます。そして、その考察過程においては、既成の学説を踏まえながらも安易に追従しないことをモットーとされてました。
 私は学部3年で農業工学科に進学し4年で農地工学研究室(農地研)に配属されましたが、その頃までの農地研は、山ア・新澤時代、新澤・竹中時代、そして、竹中・冨田時代と、計画系と土水系(つちみずけい)とが同居する研究室でした。私はそのどちらにも惹かれたがため農地研を志望したのですが、その後の人生において、計画系と土水系とを行ったり来たりしたために、どちらも浅く広く知ることはできましたが、それほど深めることはできませんでした。
 修士論文では、土水系の「大区画汎用圃場」をテーマとし、地表排水機能を高めるためには、アメリカ水田のように地表面を水平とせず、傾斜を持たす(残す)ことが適切であるが、1枚の圃場内で湛水深の差の限界もあるから、どのくらいの均平度・傾斜度が適切かを、第2章で議論しました。修士を終えて博士課程に進学してすぐ、茨城大学との交流会があり、そのとき初めて、田渕先生にじっくりと研究の中身を聞いていただきました。現場データに基づくシミュレーションについては、お褒めいただけましたが、じゃあ、そのシミュレーションがどの程度正しいのか、現場でどう確認するかについては、課題が多いと指摘されました。
 田渕先生は1960年代に、粘土質水田での排水に関する研究で多くの論文を書かれており、とくに農土論集18号は、田渕特集号と呼べるような目次構成でした。それらの論文には、現場での排水状況を知るために、田んぼの中に入って、歩いて、観察した結果が示されていました。
 私の博士論文研究においても、地表排水・地表残留水を把握する必要があり、斜め写真をオルソ化するという一応の新技術も取り入れてはみましたが、イネが大きくなると、全く使えません。歩くしかないのだと、ようやく解りました。そして、田渕先生の手法で、歩いて観察してみましたが、夏の田んぼは暑い、夕方はやや涼しいが蚊に食われる、そして泥田では、一歩一歩が重いのです。田渕先生はこんな苦労をものともせずこなしていたのだと、疲れた身体で学ぶことができました。
 その後、田渕先生には、水田ゼミでも大いにお世話になり、多くを学ぶことができました。水田ゼミでは、月例の研究会に加え、年に一、二回現地見学が企画されました。
 1990年に田渕先生は農地研に教授として戻ってこられ、退官までの5年間は、より深く、緊密に教えを乞うことができました。ちょうど農業土木学会に海外水田工学研究会が田渕先生を委員長として設置され、世界各国の水田調査を推進し、AITでの国際会議で日本の成果を発信し、各国の研究者と議論する、そういう時期にご一緒させていただいたことは、私にとって、大きな宝物です。また、茨城県、北海道での水質調査に参加させていただいたことは、私の経験の幅を大きく広げてくれました。
 田渕先生ご指導いただいたことは、他にも山ほどあります。ただただ感謝しかありません。大きく聳える田渕学を改めて咀嚼し、できるかぎり後進へ伝達したいと考えております。
 長い間のご指導、どうもありがとうございました。

                                                      河野英一 
 故田渕先生にはご生前に多大なご指導ご鞭撻を賜りました。衷心よりご冥福をお祈り申し上げております。

丸山利輔 
 田渕先生とわたくしとは年齢が同じくらいで,専門も圃場排水分野と共通でしたので,ほとんど一生のお付き合いでした.農業土木学会長もわたくしは田渕先生の後任でした.田渕先生は本当に誠実な方で,自分のことはさておき,人に尽くされる方でした.田渕先生と初めてお会いしたのは確かわたくしが現在の農業工学研究所に勤務していたころ,東京大学との共同ゼミのときだったと思います.当時,田渕先生はほとんど野外の研究は行われず,室内実験により負圧浸透の研究に没頭されていたように思います.田渕先生が野外に研究の場を移されたのは後年のことでした.圃場排水の研究では田渕先生にいろいろ教えて頂きました,霞ケ浦の水質研究では共同研究のあり方を教えて頂きました.最近では石川県立大学の特別講演に来ていただき,県立大学の教員,学生全員に先生の研究成果や研究姿勢を講演していただきました.運命とはいえ,私にとってはかけがえのない研究の先達を失い,大変残念に思います.先生の御冥福を祈ります.

宮ア 毅 
 私が東京大学の弥生キャンパスに進学した時、農学部農業工学科・農業地水学研究室の中で超然と光を放っていたのが田渕俊雄助教授でした。聞きやすいい張りのある声、研究者のオーラ、明快な論理、全てが備わったスーパー先生でした。先生が茨城大学に異動された後も学会やセミナーなどで継続的にお会いしていたところ、東京大学に戻られたので、教員として同じ時代を過ごしました。そして、先生の定年退職後に不思議なご縁で再会しました。それは茨城県内の野球場です。それぞれ別のシニア野球チームに所属していて、その対戦相手に田渕先生がおられたのです。ファーストの守備についておられました。記念に、自チームのユニフォームを着て一緒にスナップ写真を撮りました。今もそれを大切に保存しています。「お互いに頑張りましょうね」と言ってお別れしたことが忘れられません。田渕先生、安らかにお眠りください。

石川雅也 
 ご遺体に対面いたしました。堅苦しさや高踏的な冷めた表情が全くありません。顔の骨格がたくましく、きびしい修行を続けた人の強い意志力がうかがえました。
 農学の研究者として、実態を丁寧に徹底的に調査する。具体的な実測値を示し、保全計画を立てる。そこに快適感と満足感がある。先生から学んだ研究の醍醐味です。
 調査結果を整理し、論文にまとめるコツを、登山をご一緒し、山小屋に宿泊した際、登山に例えて教えていただきました。
 生きている先生に直接出会い、直に面と向かって教えを受けたということが、私の人生で最も重大な出来事です。研究に悩み求めている時、先生と偶然出会い、今までわからなかったことを教えていただき、心の眼が開かれました。先生への感謝が私の生きる支えです。
 先生の面影を、いつまでも自分の傍に置きたいと願っています。
 先生、ありがとうございました。

西村 拓 
 私が大学院博士課程の学生だった時に田渕先生が農地工学研究室教授に着任されました。旧4号館の会議室で開催された院生相手の新任教員に関する人事説明会で田渕先生の論文や著作を前に新しく来る教授がどんな人であるか説明されたことを覚えています。大学院入試で化学を選択して面接で怒られたり、水質をやっていた同期の学生が周囲から厳しい扱いを受けていた中、水質をやっている方が教授になるということは驚きでもありました。
 その後、自分が農業地水学研究室の助手に採用され、田渕先生が研究室の初代の助教授であったことを知りました。駒場の学生相手の講義の見学旅行にも声をかけていただいき、霞ヶ浦周辺をバスで回ったことを覚えています。恒温室の管理を地水研が担当していたため、実験室で会うこともしばしばで、いつも飄々とされていましたが、実は今の自分とほぼ同じ年齢でかつ学部の評議員等重責を担い非常にご多忙であったことを考えると、自分の振る舞いについては反省しきりです。
 自分が水田ではない所の土を研究テーマにしてきたことや東京農工大に異動したこと等で、定年後はお会いする機会は多くありませんでしたが、4(5)大学ソフトボール大会(院生時代に野球はなくなりました)等で、すれ違う度に優しく声をかけていただきました。
 数年前、地水研に立ち寄られ、1977年(昭和52年)に農学会賞を受賞した“粘土質の水田の排水に関する研究”について、「これは、地水研としてやった研究なので、私が持っているべきではない、どこかに飾っておいて」と農学会賞、読売農学賞の賞状を置いて帰られました。私の怠慢のため、まだ、棚に置いてありますが、地水研にいる者として、意向に沿った対応をしたいと思います。
 田渕先生、今までお世話になりました。心からご冥福をお祈りいたします。

溝口 勝 
私が田渕先生のお名前を知ったのは大学三年生の時に手にした「土壌物理実験」(東京大学出版会)の著者(八幡・田渕・中野)の一人としてでした。私が学部・大学院で地水研に在籍した時には先生はすでに茨城大学におられて、先生が東大農地研に戻ってこられた時には私が三重大学にいて、私が東大に戻ってきたときには先生はすでに東大を退職されていて、不思議と同じ場所で一緒に働くことはありませんでした。ただ、私の大学院生の頃当時の東大農工学科の「研究会議」などのシステムを発案し、オールエラーズ(AE)という学科の野球チームを作ったり、4大学対抗ソフトボール大会を始めたり、麻雀大会を企画したり、学科の教職員や学生を牽引していたのが田渕先生だったと先輩たちから聞いて、私もそうした人付き合いが好きで行動的なこともあったので、田渕先生にはいつも興味を持っていました。その後、学会活動や同窓会などを通じて知り合い、学問的に直接師事はしませんでしたが、 その人柄に惹かれるようになりました。先生も「なぜだかわからないんだが、溝口君は何となく気になるんだよなぁ」と言ってくださったのは、先生も同じ匂いを感じ取っていたのかもしれないなと、私にとっての財産になっています。ありがとうございました。安らかにお眠りください。 (合掌)

原口暢朗 
昨年7月の中野政詩先生に次いで、田淵俊雄先生が亡くなった。当方の年代では、岩田進午先生、中野先生と並んで、田渕先生は、我が国土壌物理学の重鎮であった。巨星墜つの感がある。斯学の発展に尽くした先輩のご冥福をお祈りしたい。
当方の中での先生のイメージは、「我が国の水田における排水現象の特殊性(水ミチ排水)の研究」「成層浸潤における部分流の研究」、「農村地域における水質研究の先駆者」である。部分流に係る論文は、フィンガー流における世界の先駆的な業績であった。農工研時代の同僚であった安中博士が、フィンガー流の研究に従事しており、土壌物理ゼミで先生の部分流の論文が何回か取り上げられたと記憶している。当方は、農工研で開催されていた「水田ゼミ」で先生に直接お目にかかる機会があった。お堅い先生と思っていたが、話しやすい気さくな方という印象を持った。岩田先生、中野先生、田渕先生とも、キャリア前半では基礎的な研究に従事され、キャリア後半では野外現象に興味を持たれたと認識している。現在、RTK-GPSなどハイテク分野の農業への導入が喧伝されており、”スマート農業”と称される。しかし、開放系である現実の農業は、”スマート農業”では処理できない多くの現象がある。田渕先生は”水田における湛水部分の消失過程”を丹念にスケッチされ、欧米の暗渠排水理論が我が国の水田で適用できないことを明確に示された。”スマート農業”が田渕先生の目にどう映ったか、一度お伺いしたかったと思う。

佐々木長市 
生前は大変お世話になりました。特に思い出に残っているのは内地研修の際に心温まるご指導いただいたことです。お陰様で博士号を取得し、こうして学部長の職を務めることが出来ていると考えております。先生の指導は、今も学生に還元するように心がけております。多くの方に素晴らしい思い出と教育的な指導をしていただいたことにに深く感謝しつつ、ご冥福をお祈り申し上げます。

武田育郎 
突然の悲しいお知らせに言葉もありません。私にとって田渕先生は,その昔,農業土木分野において水質の研究がまだ新しかった頃,まさに偉大な先駆者で,東大出版からのご著書「集水域からの窒素・リンの流出」は,何度も何度も読み返して勉強しました。また,その他の論文やCDでも,研究のみならず学生への授業においてもたくさん勉強させていただきました。本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。

井本博美 
田渕先生は私が入所したときは地水研の助教授で最初に教わったのは写真の現像技術を教わったことで印象に残っています。その後、調査でいろいろなことを教わったり大変貴重なことを経験をさせていただきました。また当時はスポーツで野球が盛んで野球についても初心者の私にいろいろ教えていただきました。その後、茨城大学へ移動してからは野球を通して交流をさせていただき楽しい思い出ばかりです。田渕先生は非常に心優しい方で怒ることはありませんでした。温厚で誰にでも慕われていてしかも 仕事上(研究上)でも熱心なことで有名でした。亡くなられたことは大変残念に思い未だに信じられませんでした。ご冥福をお祈りいたします
この企画をしていただいた山路先生、吉田先生、吉野先生、西村先生、黒田先生に感謝いたします。ありがとうございました。

石黒宗秀 
田渕俊雄先生,大変お世話になりありがとうございました.私が京都大学農学部学生のころ,水質をテーマに卒業論文に取り組みたいと指導教員の丸山利輔先生に相談したところ,丸山先生を通して,田渕先生が貴重な文献を多数送ってくださいました.それが田渕先生との最初のつながりでした.当時田渕先生は,茨城大学農学部で霞ヶ浦流域の水質研究に精力的に取り組まれ,農業土木学会賞を受賞された時期でした.先生の一連の研究に感動しつつ,いただいた資料を元に卒業論文を書くことができました.修士課程を修了後,茨城県にある農業土木試験場に勤めることになり,当時岩田進午さんが室長だった水田整備研究室に配属となったご縁で,田渕・岩田の水田ゼミメンバーになりました.水田に関する勉強会や現地見学会,国際会議発表などを行い,知見を広める機会となりました.また,田渕先生を中心に農業土木学会海外水田工学特別研究委員会が設立され,同じ職場の足立一日出さんと西アフリカ水田調査をしたりと,貴重で思い出深い研究活動の機会を得ました.田渕先生が微笑みながら,研究には愛が大切だと語っておられたのが印象的でした.水田へのあふれんばかりの愛を感じました.

加藤 亮 
こ茨城大学在籍時に調査や水田ゼミで大変お世話になりました。水田の水文学的な側面、水環境との関わりという、今の私の研究活動の中心的なテーマを教えていただきました。このようなテーマは、現在の世界的な環境保全への動向、生態系サービス研究が進みつつある世界の潮流に極めて大きく関与しているというのを日々実感しております。田渕先生はとても先端的な研究を、地道に弛まず取り組まれておられたことを思うと、畏敬の念に堪えません。また、多数の著書を残されており、特に霞ヶ浦に関する水環境管理への提言を含む著作群は、参加型管理という先端的なテーマとして現在も、世界で広く議論されているところです。とても田渕先生に及ぶところではない身を自覚しますが、今後とも精進を重ねて少しでも近づけるよう努力したいと思います。色々とありがとうございました。心より、ご冥福をお祈りいたします。

多田明夫 
田渕先生には他大学の博士課程の学生であった私にも親切に指導頂き,就職後も暖かいご指導と力添えを頂きました。私の今の研究があるのも先生の指導と研究があってのもので,どれだけ感謝しても足りません。本当にありがとうございました。

中村貴彦 
大学院でアオコについて研究を始めたときから、先生の業績を数多く参考にさせて頂きました。直接ご教授頂ける機会を持てなかったことは残念でなりません。安らかにお眠りになられますようお祈りいたします。

治多伸介 
田渕俊雄先生のご逝去の報に接し,謹んで哀悼の意を表させていただきます.
田渕先生からは,私の京都大学助手時代から,30年以上にわたって,水質研究全般について沢山の御教示をいただきました.田渕先生の一連の御著書,論文は,今でも私の講義の主要な参考文献として,大切に使わせていただいており,これからも,先生から学び続けさせていただきたいと思っております.田渕先生,これまで本当に色々とありがとうございました.心より,ご冥福をお祈り申し上げます.

牧山正男 
田渕先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
学生時代に受講させていただいた農地工学の授業が大好きでした。現在,恥ずかしながら同じ授業を担当していますが,この分野に深く振れれば触れるほど,あれも教わっておけばよかった,この話をもっと詳しく伺いたかったと,先生の偉大さが身に沁みます。

山岡 賢 
休日、茨城大学農学部で開催されていた田渕先生主宰の水田ゼミで、水田、土壌物理や水質に関する様々な話題について、ご教示いただきました。門外漢で部外者の私をゼミに温かく迎え入れてくださり、ご指導くださいました。誠にありがとうございました。ゼミでは、いつも先生の研究に対する情熱・好奇心に、圧倒されるばかりでした。ご冥福をお祈りします。

川本 健 
学生時代に参加した合同ゼミの際にいただいたお言葉は、現在の私の学問に対する姿勢の礎の一つとなっております。ゼミの後、先生のご著書をすべて購入し、読み漁りました。私にとって運命の出会いの一つでした。

久保田富次郎 
長年にわたりご指導いただきまして誠にありがとうございました。

折立文子 
田渕先生のご逝去の報に接し、心から哀悼の意を捧げます。
先生には今から8年前、当時の上司とともに参加させて頂いた「水田ゼミ」で初めてお目にかかりました。数多くの書籍や論文で御名前を拝見する大先生を前に緊張していた私に気さくに話しかけて下さったことがとても嬉しかったのを思い出します。
先生にお目にかかれたのはそれが最初で最後となってしまいました。大変残念です。
先生のこれまでの水質分野の研究における偉大なご功績に深い感謝の意と尊敬の念をもって心よりご冥福をお祈りいたします。

飯田俊彰 
 田渕俊雄先生の訃報に接し,大きな悲しみと同時に農業農村工学の進む道を導く大きな星を失った喪失感で,まことに痛惜に堪えません.深く哀悼の意を表します.先生は,農業土木の分野で最も早く農村地域での水環境の問題を手掛けられ,その後のこの分野の大きな流れを作られました.私ども多くの後輩が,先生の後に続いて水環境問題の研究に足を踏み入れました.先生のご助言,ご指摘に大きく刺激して頂いたこと,先生から励ましやお褒めのお言葉を頂いて嬉しかったことが,今も鮮明に記憶に残っております.また,農業土木での地球温暖化問題の重要性も早くから指摘されており,「これからはガスも測らないとね」とかけて頂いたお言葉は強く記憶に残っております.懇親会では私ども若い者の話に真摯に耳を傾けて下さり熱心に意見を交換して頂いたこと,球技大会で学生チームの捕手をしていた私に「投球練習をしたいから受けてくれ」と気さくに声をかけて下さり先生のずしりと重い速球を受けさせて頂いたことなど,思い出は尽きません.常に農業農村工学の先を見据えて新しい研究分野を自ら実践し,後輩に多くの仕事を残して頂いた田淵先生を目標とし,先生に少しでも近づけるよう,なお一層精進したいと思います.これからも高いところから農業農村工学を見守って頂きますようお願い致します.

嶋 栄吉 
 田渕俊雄先生のご訃報に接し、悲しみにたえません。青森十和田市北里大学獣医学部での集水域の水環境の長年の研究成果に基づいた灌漑排水学の非常勤講師の先生の講義は、学生に面白と好評のようでした。更に、私は、先生が、主催した現場と学生が好きな東大農学部 農地研伝統の催事(ゼミ、現地調査、スキー、野球、など)に参加の紹介・勧誘があり、お陰様で、大学人として、農学分野の一人の教育研究者の基本姿勢を楽しく学び機会を得たこと、幸運でした。先生の様々なご指導と、ご助言ありがとうございます。先生との一期一会の出会に感謝し、ご冥福をお祈り申し上げます。
合掌。

倉 直 
田渕先生の思い出と学科の変遷
 
 学部4年になって、卒論指導を受ける研究室を選ぶときに、迷わず農地工学研究室を選択した。多分、研究内容でなく、研究室の空気というか、陣容というか、あまりそこで何を勉強したいかという本質的な理由ではなかった。当時の農地研の教育・研究体制は山崎教授、八幡助教授、田渕・竹中助手と田淵公子教務技官という構成で、私から見たら一番魅力的な研究室であった。ただ、卒業後、建築学科大学院で環境工学の勉強をしたいという希望があることから、夏休み前に当時、専攻生が一人もいない海水利用工学研究室へ移った。当時のこの研究室は制度上、杉教授(製塩工学専門・専売公社と併任)、新澤助教授(農地工学)、岩崎助手(農学)で、実質的には専売公社からの内地研究員2名を中心に環境調節工学の研究が進められており、やがて、正式に環境調節工学研究室となるので、他学部の大学院に進むより、この研究室で卒論をまとめ、そのまま大学院へ進学するのが効率的と八幡先生に勧められたからである2)
 農地研での勉強は数か月であったが、専攻生ゼミなど大変刺激のあるものであった。特に新進気鋭の田渕先生の存在が目立っていた。私は参加しなかったので、いつ頃始まったかは定かではないが、軟式野球チームの監督兼エースとして、他大学のチームとの試合も長く続いた。私の卒論指導は後に専売公社中央研究所長になった人で、化学工学出身で、大変厳しく指導された。無事卒業したが、大学院への進学では、当時は面接だけで、新澤先生にきつい質問をされて、戸惑っていたところを山崎先生に助け舟を出していただき、無事大学院生となった。大学院の5年間と助手の1年間は田渕先生と同じ学科に所属していたことになる。海外留学を夢見ていた私は、あるとき、農業土木学会の英語表記がAgricultural Engineeringとなっているのを見つけて、田渕先生におかしいではないかと質問した。先生も同意して、その後すぐに変更された。田渕先生が農業土木という狭い視野をこえる見識を持っていることが、私には忘れられない3)。博士課程に進学するときに、地水工学研究室が新設され、八幡教授、田渕助教授、中野助手という構成となった。大学紛争が次第に激化し、田渕先生は進歩派の先頭であったと思う。助手1年生の私も助手会を代表して、学部長との団体交渉などやったと記憶している。さらに激しくなり安田講堂攻防戦がはじまる直前にアメリカ留学が決まり、2年後に戻って数か月で千葉大学へ転出したので、田渕先生がどのような理由で、茨城大学の助教授へ転出したのか、その理由は定かでない。私は6年後、東大に戻ったが、東大紛争の余波で、4号館の入口にはタテカンがあった。教員採用は公募制になっていて、環境調節工学の教授ポストも公募され、応募者があったが、教授会で否決され、野口助教授(測量学)の後任の立花助教授が講座担任となり、岩崎助手はそのままで、そこに私が戻ったことになるので、タテカンの攻撃の好材料にもなっていた。
 学科は環境研を含めて4研究室の農業土木専攻と2研究室の農業機械専攻とで構成されていた。農業土木系で田淵先生が抜けた後のむなしさを感じたのは私だけであろうか。駒場から進学希望者が減少し、その対策として、学科の卒業生に2級建築士の受験資格があるのを、1級建築士の資格になるようにと、2級建築士資格を持つ私と農業建築学担当の浦非常勤講師が原案を作り、助教授層で検討した案を最後の承認を得るべく学科会議へかけたところ、農業土木系の長老教授の「これだけ農業土木色が教科目名から消えるのは承服できない」という一言で否決された。一緒に原案つくりをした私より年配の農業土木系の助教授陣も沈黙せざるを得なかった。紛争を直接経験してない私には紛争前の気持ちがそのままであったと思われる。そのため、6年後に教授ポストが空いても、学科教授全員の同意が必要となっており、やっと1年遅れで、教授昇格が審議された。その時、農業土木系の教授から農業土木学会へ入会することも昇格の条件であると告げられて、即座に入会したが、教授昇格が決定した後、直ちに退会した。
 昇格して数年後、講座名をかねてから考えていた生物環境工学と改めた1)。さらに数年後、農学部全体での名称の再検討と大学院講座への移行が行われ、その時、学科主任であったので、学生アンケートなども参考に生物・環境工学専攻(学科名)を候補として提案し、教官会議で承認された。これで、農業土木という名称は消えた。

あとがき
 今回の案内をうけて、資料探しをしたら、田渕先生が「回想の学園生活」という短編を著しておられるのを知って、東京大学と茨城大学に貸し出しの申し込みをしたが、許可されなかった。コロナ禍でなければ、出かけて読むことができたが、残念である。
ご冥福をお祈りいたします。

参考文献
1)倉 直,1999:生物環境工学. 学術月報. 52(8), 76-77.
2)倉 直,2018:我が国の生物環境工学の発展〜半世紀あまりの研究活動を通じて〜.農業および園芸, 93, 19-30.
3)東京大学農業工学科同窓会, 1984: 東京大学農学部農業工学科八十周年記念誌. 183pp.

吉田修一郎 
 田渕先生には、学生の頃もご指導は受けていたのですが、当時は「よその研究室の水質の先生」と思っており、自身の研究テーマから遠い感じがして、お話をさせていただくことはほとんどなかったと思います。その後、私が北陸農試におりましたときに、水田ゼミの現地視察があり、はじめてフィールドで目を輝かせておられる「真の」田渕先生を知ることになりました。その後、つくばでは水田ゼミにも参加させて頂きお目にかかる機会も増え、また、2012年には東大の大学院の講義で先生のこれまでの膨大な御研究と研究者人生をお話しいただきました。田渕先生を知れば知るほど、先生からもっと学んでおくべきだったと思ったものです。それは、先生の豊富な知識やご経験という面だけではなく、気持ちがすきっとするような非常にクリアなお話しぶりに聞き惚れていたという面もあります。現場っぽさと知性が見事に解けて昇華した類まれな存在感に敬服しておりました。
 田渕先生の目指しておられたことの1/10、いや1/100でも良いので引き継いでいけるよう、今後も悩んで、進んで参ります。天国から私をお導き下さい。これまでありがとうございました。

田中忠次 
恩師、田淵先生の思い出

 昨年末に御子息様からの連絡で、田渕先生のご逝去を知り大変驚きました。ご家族の皆様のご心痛はいかばかりかと存じます。本来であれば弔問に伺うべきところ新型コロナ禍の状況下では相叶わず、本当に申し訳ないと思っておりました。このような機会を設けて頂いたことに感謝申し上げます。

 先生が東京大学を定年退職されたあとも、学術会議、学会大会などでしばしばお会いする機会があり、親しくお話をしたことを思い出します。先生は若手の研究者に人気があり、学会での発表会終了後でも、多くの若手が先生をとりまいていたことが印象に残っています。そのため、学会での発表会などの終了後にじっくりと先生と対面で話し合った機会は以外に少なかったのかなと思っていますが、ときには、少人数で酒を飲みながら、近況を話し合ったことも記憶しています。

 私は卒業研究を先生から直接に指導して頂きました。成層された土壌中における浸透水の部分流の研究です。畑作地帯などで下層に透水性の大きな土層があると部分流が発生しますが、勉強していく内にこの問題は多くの浸透研究のなかで不安定流の研究につながる課題でもあり、石油探査など多くの分野でも研究されるようになってきていることがわかりました。畑作地帯における干ばつ問題が契機となり、浸透流の不安定現象に先生が先駆的に取り組んだ課題の一端を卒業研究として触れることができたのは私にとっては幸運であったと思っています。私は卒業後は農水省の研究所に入りましたが配属は構造系分野でした。土壌物理とはかなり異なった分野でしたが、研究を進めていくなかで、地盤とか構造物が破壊するのは、ある種の不安定問題が関わっていることに気づき、せん断帯の発生、崩壊問題などに取り組むようになったことも、この卒業研究での経験に由来しているものと思っています。フィールド研究についても印象的な思い出があります。新潟県の重粘土地帯における水田調査に同期の卒論学生と2人だけで行くことがありました(私は単なるアシストでした)。その準備の仕方が非常に勉強になり現在も記憶に鮮明に残っています。先生から我々に渡された持参すべきもの及び現地での調査項目などのリストとそのチェック方法はまことに計画的かつ綿密であり、強い印象として残りました。大雑把な私ですが現在でも海外などに行く際にはリストを作成しておき、チェックする習慣がついたのはこの時の経験によるのかなと思います。先生が茨城大学におられた時に、多くの研究者を組織化して有名な「霞ヶ浦研究」を成し遂げらたのも、この組織性・計画性によったのではないかと推察しております。

 先生からは研究の面だけでなく、野球とかスキーなどスポーツ面でもいろいろ経験させていただきました。野球では、私は運動は得意では無いと思われていたようで、運動場でバッティングをすることがあり、見ておられた際に一言「以外にも打てるんだな」などと「お褒め?」を頂いたこともありました。研究室をあげてのスキー旅行も私は全くの初心者でしたが、楽しく参加させていただき、また往復の列車では会話を楽しませて頂きました。

 『寸鉄人を刺す』という格言があり、字面どおりの厳しい意味ではなく転じて、「短い言葉で核心を突くこと」を指しています。先生は思いやりのある暖かい人柄ですが、ときには一言で核心をつく言葉で評することがありました。私も先生の言葉にハッとさせられたことは何度かありました。

 数多くの人々が先生のお教えを受け、各界で活躍されていることは言うまでもありません。いろいろの面で、我々にいくつもの貴重なお教えを残していただきました。先生を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます。


佐藤照男 
田渕先生の突然の訃報に接し、驚きと深い悲しみでいっぱいです。 私は1993年に公立大学研修員として田渕先生のご指導をいただ きました。 先生にはいつも優しい笑顔で接していただいたことが今でも忘れら れません。農地工学研究室(農地研) のゼミへの参加や関東5大学野球(ソフトボール) 大会に東大チームのメンバーとして出場させていただいたことなど が想い出として残っています。 先生は八郎潟の水質問題にも強い関心をおもちであり、 2008年に秋田県立大学で開催された農業農村工学会全国大会で は特別講演や総合討論会で大変お世話になりました。また、 筑波水田工学研究会のメンバー6名で八郎潟を訪ねて「 不耕起移植水稲栽培」をご視察いただきました。 先生の心温まる数々のご指導に心より感謝申し上げるとともに、 ご冥福をお祈りいたします。

水谷愼一 
 心からお悔やみ申し上げます。不肖の教え子でしたが、在学中は先生には大変にお世話になりました。ゼミで行った研究やイベントなどの出来事を、今でも折に触れて思い出しますが、本当に楽しい日々でした。あの世でさらなる高みに昇るべく研究やスポーツをされていると思います。安らかな永眠をお祈りいたします。

近藤 正 
 青い日本海の上に真っ白に雪を被った鳥海山を望む秋田県男鹿半島で、荒れ果てた棚田を学生とわいわいと刈り払いしトラクターで耕耘しながら田渕先生を思い出していました。秋田に来てから26年となりましたが、着任してすぐに田渕先生のお声かけで、八郎潟や男鹿につくば周辺の皆様をご案内させていただいた楽しい思い出がつい昨日のように目蓋に浮かびます。小さくとも大きくとも田んぼと農家に敬意で接する先生の凛々しいお姿が今も印象的です。寒風山から八郎潟干拓地と鳥海山を望むこの景色や風の匂い、農業や田んぼについての会話、菜の花祭りの秋田美人などなど、楽しい時間を共有させていただきました。駆け出しの若造に一流の先生方をご案内させていただけた喜びも今も新鮮です。 学生の頃に先生の著書で学び、新潟の水田で肥料成分の流出機構について研究させていただき、今は八郎潟干拓地をはじめ秋田の水田で地味に研究を続けさせていただいております。水田は複雑すぎてなかなか整理できずにもたもたと苦しんでいますが、先生に見ていただけずにお別れとなり、いつか成果をお見せしたいという気持ちだけが残されてしまいました。院生時より学会発表では真っ先に質問をいただいたことを今でも覚えています。学会でお会いできると「しっかりやってるかい」とお声をかけていただき、いつも励ましていただきました。

黒田久雄 
田渕先生には,学部生時代からお世話になってきました.こんなに早く亡くなるとは思っていなかったので大変残念です. 茨城大学の学部生時代は,水文学や水理実験を教えてくれる優しい先生の一人でした.研究室に配属された学部時代も怖い先生のイメージは無く,イベントを多く作ってもらい楽しい学生生活を体験させてもらいました.大学院生になってからは,灌漑排水や水質のゼミや調査・分析を始め,休む間も無いほど忙しい生活となりました.それでやっと大学院生の自覚が持てたと思います. 研究を理解しつつあったこととから,博士課程への進学について相談したところ,進学について快く快諾していただきました.数ヶ月後に,田渕先生から,どうせ博士を取るなら大学に助手として残りなさいと言われたときは,大変驚きました.今もって,何故修士の学位も無い私を助手に採用してくれたのか理解できていません.このことが無ければ,私は研究者としての人生を送ることができませんでした.理解できずとも大変感謝しています. 助手に採用された後は,多くの調査・水質分析をしながら一緒に研究を行っていました.国内学会や国際学会,水田ゼミで,田渕先生の紹介で多くの著名な研究者の話を聞くことができたことが,私にとっての経験値を上げてくれたと思います. 一番の思い出は,博士論文作成時です.田渕先生はすでに東京大学に異動された,阿見の自宅に帰宅後に週に何回も数時間にわたって指導してもらいました.当時は自分のことで精一杯でしたが,東京大学で多くの仕事をした後なので相当に疲労があったのに懇切丁寧に指導していただいたことは本当に感謝してもしきれないほどです.今,当時の先生と同じような年齢になりその大変さが身を以て理解できるようになりました. 東京大学を定年後は,茨城大学に良く顔を出してもらい研究などの話を聞いてもらい,アドバイスをしてもらったことは数多くありました.霞ヶ浦流域の研究,窒素の研究など,今でもまだまだだなあと言われ続けているようにも思います. 最期は,コロナ禍のために隣の病院であってもお見舞いにも行くことができず大変悔やまれます.今後も田渕先生が作られてきた学問に恥じないように精進していきたいと思います.安らかにお眠り下さい.

Venkatachalam Anbumozhi
I first met Tabuchi sensei in the Paddy Field Engineering conference in1991 as I was a graduate student at Asian Institute of Technology.Listened his lecture which was about paddy field water management andpuddling – as mesmerizing field survey results. Latter I joinedNouchiken led by Tabuchi sensei in October 1992 as a doctoral student . Ivividly remember three things about Tabuchi sensei when he walked intothe laboratory on the first day: his stern face, his smiling crutches,and his incredible inner mind filled with knowledge and wisdom ofagricultural engineering.Later, I stopped from the seminar room to his office to see if I couldtake his class on soil physics even though I didn't have all thelanguage requirements and I was only a foreign student His facesoftened as we talked, my thoughts about his language disabilitiesfaded as I discovered one of the most brilliant and receptive minds ofthe world. He gave a copy of his book on Soil Physics and waterinteractions that explained the finger flow. Latter I started attendingTabuchi sensei’s bunken seminar through which Tabuchi sensei inspiredus to have deep debate on contemporary issues . Kuroda san, Shimura sanare key members, we learned together and grew together under Tabuchisensei.Tabuchi sensei believed that each individual should be judged by his orher own academic merits, research intuition and not by any externalsocial indicators such as age, sex, or international class. True toform, he let me take his class, in Japanese but didn't expect any lessof me than he did his other students. Rather than prejudicing andcapping my abilities, Tabuchi sensei gave me free rein to the fields ofacademia. He took us to fields in Kasumigaura and taught us in takingthe water quality samples. After the annual Nogyo doboku Gakkai (JSIRDE)meeting, Tabuchi sensei used to take us to paddy fields. We visitedHachiro -gata, Kushiro, Miyazaki as an adventurous and explorative filedsurvey, which I enjoyed very much . He also took us for home stay inhis second home in Izu peninsula, invited for new year party gathering.Tabuchi sensei is the first person, who showed the snow in the Zao skiresort.Tabuchi sensei is a pioneer in redefining the goals of paddy fieldengineering research and higher education in traditional agriculturalengineering . I helped Tabuchi sensei in bringing out the World Paddyfields of the world book, a JSIRDE publication which is an inspiringbook to take a broad range of issues that we all love and studiedtogether . As I look back now, that was implicit in everything he taughtand showed me. In an age of specialization and career-based education,Tabuchi sensei was a Renaissance man.I graduated from Nouchi in September 1995, six months after theretirement of Tabuchi sensei. He gave me the honor of attending myfinal defense. I could see his smiling face on that day and the beliefit is a culmination of a belief that each student, if given totalacademic freedom, could develop a curricula for himself that would beboth broad and deep - and ultimately more challenging and fulfillingthat any core-course based curricula could ever be.Tabuchi sensei was always open for new learning. He used to convenepaddy field seminars in Saturdays at the Ibaragi University. I alwaysenjoyed being able to go to the seminars and enter a debate with Tabuchisensei over paddy field research subject. Which is always close tohis heart. Tabuchi sensei’s focus and his depth of field experiencewere amazing. He is curious in knowing more about paddy filed researchin other countries. He would inquire about it with vigor. Tabuchi senseikept asking me about the new articles that I mentioned in my thesisbecause he wanted to get a broader perspective about a subject he wantedto learn more.As getting into different walks of professional life, I have beenthinking about the enormous responsibility that university professorsare entrusted with. How Tabuchi senesi educated the next generation ofprofessors -not only their lives, but the potential shape of society tocome. I ask myself whether I am providing next generation with the verybest that they deserve, and whether I am giving them the tools thatwill enable them to become better scholars and better citizens. HereTabuchi sensei remains a role model for all of us. He inherited a largelegacy from Yamazaki sensei, inspired the next generation of professorsin the field of agricultural civil engineering. Tabuchi sensei memory isstill warm in my heart. He is the type of teacher, member of anintellectual community, and mentor that I strive to be. I read thiseulogy at his memorial service.Passing ways always brings to close so many unfulfilled wishes. Iregret that I didn't take advantage of Tabuchi sensei’s open door more.Kuroda san took me to meet Tabuchi sensei at his residence in late2019. The meeting was very short . Though his body was frail, his mindwas always so energetic that I could never imagine him passing away.At his memorial service register, I learned more about Tabuchi sesneiwho was my teacher, advisor, and mentor. I learned that he was a man wholoved his family dearly I learned that he was active in the inagicommunity - a vital force in the construction of study circele. Ilearned that not only had he helped the careers of many students such asmyself through his advice and warm support, but that many professorshad become equally as indebted to him.The world has lost a brilliant mind, his family a dear father andgrandparent, for nichiken valuable professor and former dean, and weall lost a dear Tabuchi sensei . In his stead, Tabuchi sensei lefthimself in the lives of many people. I see his warmth towards his familyand friends, I see his compassion towards students reflected in theprofessors he touched, and I see his drive for a diverse, intense, andexciting agricultural education in the students whose lives at theuniversity of Tokyo and Ibraki university he had helped guide.Tabuchi sensei, I love you, I remember you and I recognize you. Youwill be living with us for ever. My respects and prayers to yourfamily.

黒田清一郎 
私は、田渕先生が東大農地研に着任された年に学部3年生として農地研に配属され、その後卒業論文、修士論文、博士課程1年までご指導いただき、退官後も博士課程修了まで田渕先生にご指導を賜りました。  私の試験フィールドは阿見町大形地区の休耕田近くでしたが、私の研究対象は水田ではなくその上流の湧水、そしてさらに上の台地のスイカ畑地となりました。田渕先生からの具体的な指導というものは、私の記憶ではたった一つ「ここの湧水の流量と硝酸性窒素濃度を計測すること」だったように思います。ただそのたった一つの課題に取り組む中で、明らかとなった様々な現象を解明する方法を考え、その都度に田渕先生のご指導をいただくという形で、私の博士論文までの研究は進められたように思っております。その中で、まずは虚心坦懐にフィールドに飛び込むこと、その中で現場データを取得すること、そのデータからプライマルな関係性・法則性等を見出していくこと、などを経験として蓄積することができたと思っております。修了後、農工研に勤めることとなり、異分野、海外の研究者とも多く共同研究、交流を重ねることとなりましたが、私が取得した現場データの価値を評価されることが多くありました。もしそのような評価が妥当な点があるとすれば、それは田渕先生に学生時代にいただいた御指導の影響によるものと感謝してきたところです。  また田渕先生の元で進めた研究は具体的には、農地中の水と栄養塩類の物質移動、特に表層土壌から深層も含めた不飽和帯、地下水、最後に湧水として土壌圏から水圏に流出するまでのプロセスの解明ということになるかと思います。就職してからもそのテーマについて、科研費や環境省の競争的資金による研究プロジェクトにおいて一貫して、また継続的に進めることができ、現在も科研費基盤A等の課題で、非破壊診断から土壌物理まで、多様な分野の研究者との共同研究として取り組むことができている状況です。このことも、田渕先生からいただいたテーマと課題設定の正しさ、深さを示すものと私は感じており、感謝しております。  田渕先生は、選択的流れの発生機構の解明、土壌の保水性のミクロなメカニズムからの解明、そして奥様である公子様と共に研究を進めた火山灰土壌のミクロな構造の解明と、実際の野外での水文現象の解明、といった内容を中心とした土壌水文学に関する研究、日本の水田圃場の排水性改良から世界の水田に関する系統的研究を含めた水田工学、そして一筆の水田の窒素収支から集水域全体の窒素等栄養塩類の循環を明らかにした水質水文学、現在ではBio-geoscienceとも呼ばれる新しくかつ大きな学術領域につながるものである水田土壌での窒素除去機能とその定量化に関する研究、など、数多く、また幅広い領域の学問分野において、常に新たな扉を開き、全てにおいて系統的な学術体系を完成させられたと思っております。  私が懇親の席等において「不肖の弟子」というと田渕先生はうれしそうに「本当に君は不肖だな」と笑ってくださったことを覚えております。田渕先生の功績は膨大で深遠なものであることから、私自身が微力を尽くしても貢献できるところは残念ながら少ないものと考えますが、少なくとも不肖の弟子として、田渕先生からいただいた課題だけはやりぬいたと報告できるように、研究者として残された時間の中で、精一杯精進して参りたいと思っております。  田渕先生が東大農地研にいらっしゃったころの先生方、そして教え子を中心に田渕先生を囲む会というものを定期的に茨城大学や阿見町で開催させていただきました。2020年の3月に田渕先生の85歳のお誕生日を祝う会として開催する予定でしたが残念ながらコロナの影響で見合わせることとなってしまいました。ただコロナが流行する前に、一時的に来日されたAnbumozhiさんとともに、一緒に田渕先生のお宅を訪問しお会いし、お話をすることができたことは良かったと、今では思っております。田渕先生は、アメリカの学会等には行かれないという印象でしたが、退官されたのちにイチローを実際にアメリカまで見に行かれたという話を、囲む会の中でお伺いし、私自身は少し驚き、私自身もコロラドでのイチローの勇姿を見たことがあるので、何度かそのお話をしたことはよい思い出となっています。また最近では大谷選手の二刀流としての活躍を楽しそうに語っていたことも印象に残っています。  田渕先生の人生と研究者としての業績、そして長年にわたり賜ったご指導に、心からの尊敬と感謝を捧げるとともに、ありし日の思い出を胸に、今後も精進して参ります。  新たな研究分野の開拓の闘争を続けられた田渕先生、どうぞ今は安らかにお休みいただけたらと思っております。謹んで御冥福をお祈り申し上げます。


〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇…


〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇…